曼殊沙華

日記

ハンドメイド

私がヨブだったら、ぼろぼろにされた後、唐突に幸せを渡されても受取拒否するけどな。むしろ何にも生えてこない畑とひとりぼっちの生活に美を見出し、神より徳を積んで、死んだ後に神の寝首を掻くよ。本当は遺影をキキララのシールでデコって欲しいけれど、のどかはセンスないからダメ。端っこにちょこんとシール貼るんじゃなくて全体的に、ギャルが5年ぐらい使ったガラケーみたいにがっつりやって欲しいの。自分の葬式もハンドメイドしたい。

神に運命左右されてるのにも関わらず、そのことに抗わないヨブって生温くない?不幸になるにせよ幸福になるにせよ、結局のところ手のひらで踊らされているだけなら同じことだと思うんだけど。

最近中学生時代のことをよく思い出す。今現在をあの頃と重ねているからなんだけど、私嫌だよ、中学の頃の幸福感で満足して生きられてないもん。今はもっと色んなことを知っているし、苦い思いもしてきた。

その上、新しい苦難の方がずっと澄んだ空気のように思える。

いつも何かに抗って生きてきたんだから、これからもやめる理由が見つかるまでそうする。

大袈裟に落ち込んだり泣いたりしても、必要だからそうする。

このような考え方が辛いことを引き寄せるなら引き寄せればいい。これまでの流れと反した運気の流れ、人生や神に騙されて体良く収まってしまうくらいなら、私はそんな幸せいらない。

毎日ちゃんと自分の世界を作ることをして、地に足つけて生きるよ。

おやすみ。

ほんの出来心で

2月20日

まんじゅしゃかに何を書いていいのか分からず、夜から朝までずっと書きあぐねる。

その間に何度かclubhouseを起動する。猫好きの部屋に相変わらず動きがある。愛猫が亡くなってから、二年が経つけれどいまだに悲しい。スピーカーになるには、アイコンを猫にすることがその部屋のルールなんだけど、それができない。発言者のマイクから猫のごろごろと鳴く声を聴く。ひとりで夜に作業していると心細い気持ちになりがちだ。こういう部屋を見ると、徘徊の末、明け方に見つけたすき家の明かりを思い出し安心する。しばらく猫好きの話を聴いて部屋を離れたような気がするが、頭がぼんやりしていたので、さだかではない。

 

2月21日

午後一時に同居人にたたき起こされる。昼の定例会は終わっていた。夜に期待。「友田とんさんと『百年の孤独』をゆっくり読む。」というオンライン読書会に参加。これは知り合いの本屋さんがやっている企画で昨日知ったもの。ガルシア=マルケスは大学時代に好きで読んでいた。詳しく作品について語れるわけではないが、作品の手触り、文体には大変影響を受けた。そのおかげで「キャッチアンドリリース」という作品を大学二年生の終わりに書いたが、紛失してしまった。三輪さんなら原稿を持っているはず。今「百年の孤独」をゆっくり読んだらもっと何かを掴めるかもしれないと思って、読書会がはじまる時間にZOOMを開く。名前を求められたが、これは初回、話す機会はないだろうと思って適当な名前をつける。にゃんにゃんぴーち♡。

ZOOMの部屋に入った瞬間、複数人の女性の姿が映り、本の感想を求められる。すいません。ほんの出来心で参加しまして、「百年の孤独」も図書館で借りたばっかりで持っていないんです、と弁解。なんとかしのぐ。

楽しく時間が進む。参加者は意外にも女性ばっかりなので嬉しい。今までずっと一人で誰にもマルケスのことを話せなかったので興奮気味で話す。

最近はたくさん”話せる人”と出会うのでありがたい。来月も参加する予定。

 

2月22日

日記はいろいろなことが書けるけれど、日記を書く時間のことは叙述できない。

新潮の三月号が届く。まっさきに山城さんの日記を読む。本を買った同居人よりもさきに読む。色々、思うことはあるが一言でいってかわいい。たいていの憎悪や愛好も”かわいい”に昇華できる。できなかったことはない。日記という気の抜けた形式を求められているけれど、ちゃんと質の高いものになっている。物語の型に呪われている人間はこういった書き方はしない。安易に落としどころを見つける。文章を散歩しながら物語を拾う人はたぶんこうなる。面白い。青山さんのも読む。残りも毎日少しずつじくじく読もうとおもう。書き方を真似て日記を書き始める。